テロルの決算
この日本で、テロによって亡くなった総理大臣、もしくは元総理は、意外なほど多くいる。初代総理大臣の伊藤博文に始まって、原敬、浜口雄幸、犬養毅(五・一五事件)、高橋是清(二・二六事件)・・・。戦後は安倍元総理が初のケースとなったが、昭和30年代、当時の社会党委員長が演説中に右翼の少年に襲われた事件も大事件であり、まさにその瞬間が写真に捉えられているだけでなく、小説の題材ともなっている(沢木耕太郎・テロルの決算)。当時は、右翼だけでなく左翼陣営においても、暴力で政権・権力者に立ち向かうことは当然と考える風潮が強く、今と比べてずいぶん物騒な世相であったと思う。
そもそもテロは絶対的に悪なのか。テロとは何らかの政治的・社会的意図を持った暴力のことである。革命や政権の転覆を狙った大規模なテロもあれば(二・二六事件など)、一人の人間が自分の思想を強く訴えるためのテロもある(三島由紀夫の自決など)。政治的な目的とは言えないが、江戸時代の赤穂浪士による吉良邸討ち入りなどもテロといってよいだろう。これらのテロが、単純な悪事として片付けられないことはまちがいない。それどころか世界中の人々から歓迎されそうなテロもある。例えばプーチンに対するテロである。ウクライナの戦争はプーチンひとりの妄想で引き起こされた戦争であるから、この世からプーチンさえいなくなれば、この戦争は終わるのである。
今少し根本的な問いかけをするならば、殺人は絶対的に悪なのか。国が決めた法律(刑法)の下では確かにそうだが、法律と道徳は別である。例えば親のカタキを伐つとか積年のウラミをはらすことは、道徳的には悪ではない。むしろ人として、あるいは男としてやるべきときはある。それが単純な悪事であるならば、ほとんどの小説や芝居は成立しないであろう。刑法にしたところで、「人を殺した者は死刑もしくは10年以上の懲役に処す」と書いているが、「人を殺してはいけない」とは書いていないのである。
安倍元総理が襲撃された事件において、事件直後は、犯人の山上容疑者を単純に「卑劣な犯罪者」と見なそうとするかのようなマスコミのコメント、報道姿勢が多く見られた。それどころか、元総理と特定宗教との関係を、山上容疑者のカン違いであるとして、事件の重要な背景を直視せず、あるいはフタをしようとするかのような報道姿勢も見られた(NHKなど)。しかし、この事件は山上容疑者の手記に示されている通り、邪悪な宗教に対して個人的なウラミをはらしたというだけでなく、彼なりの正義心が込められたテロであったと思う。その意味において彼の意図は十分に達成されたのであり、たとえ死刑になったとしても彼は一切後悔しないと思う。最後に安倍元総理のご冥福をお祈りする。