日立のパソコン

ひとり娘が今年北大の4年生で就活の真っ最中なので、サラリーマン時代に苦労したときのことなどを話した。私は最初に就職した会社が日立製作所で、日本一の会社だと信じて就職した。当時は総合電機メーカーとして米国のゼネラルエレクトリック社を模範とし、大型コンピューターではIBM社に追いつくことを目標としていた。 はじめは横浜市にある研究所の総務課に配属されて比較的のんきに過ごすことができたが、7年目で千葉県の習志野工場(写真左)に転勤となり、それからが大変だった。

この工場はもともと汎用モーターの専門工場であったが、それだけでは利益が出せなくなり、新事業としてパソコンを始めることになった。しかし、パソコンでは先発の富士通やNECに大きく遅れをとっており、人材も不慣れな人間の寄せ集めという感じであった。日立は大型コンピューターに力を入れており、パソコンは軽視していたが、NECのPC98(写真中)が市場を席巻し始めたため、あわてて参入したのである。 

日立のパソコンは、あまり売れなかった。先発メーカーに出遅れ、市場を押さえられていたことが致命的だったと思う。パソコンなどはとにかく、数多く売ることが必要である。部品などは大部分を専業メーカーもしくは下請け工場に発注するのであるが、発注数量が少ないため、なかなかこちらの言うことを聞いてもらえないのが、辛いところだった。価格や納期について折り合いがつかないならまだしも、ひどいときには不良品が紛れ込んでいたりする。 

私は日本一の会社(ほとんどの社員がそう思っていたと思う)に勤務していながら、将来に全然希望がもてなくなってしまった。あらためて自分の周囲を見回してみると、上司の課長や部長といえど、いつ転勤があるかわからないので、みんな小さな社宅住まいである。その上、課長か部長どまりでどこかの系列会社に転籍させられるのが普通だった。当時は転職するなどまだ一般的でなく、親にも工場の同僚にも強く反対されたが、なんとか私を採用してくれる会社を実家のある関西で見つけることができたので、転職することにした。日立退職後も日立のことは気になり、はじめてのパソコンも日立の製品(写真右)を購入したが、今はさすがに完全に撤退したようである。